個展を振り返って、その7。『春と修羅』を題材に選んだ理由。
さて、もう少し近作の話におつきあい下さい。
上の絵は、「Vacuum Solvent -真空溶媒-1」。
宮澤賢治の詩集『春と修羅』の中に入っている詩の一編を題材にした連作のうちの一枚です。
これまで私は、詩にはあまり親しんできませんでした。
絵の題材にしたこともありません。
ご存知のように、私は宮澤賢治という作家が大好きです。
でも、賢治の詩集については、読み慣れていないこともあり、あえて手に取ることはありませんでした。『春と修羅』は有名な詩集ですし、学校の教科書などでも紹介されていましたから、まったく知らないというわけでもなかったのですが、敬遠していました。賢治の詩というと、自身の生き方の指針を述べた「雨ニモマケズ」や妹さんの死を扱った「永訣の朝」など、リアルな出来事を題材にした作品が取り上げられることが多く、架空の世界をモチーフとする私の絵の方向性とは合わないだろうと思っていたのです。
でも、今回の個展のために改めて『春と修羅』を読んでみて、これまでの認識と全然印象が違うことに驚きました。童話も詩も、やはり賢治は賢治。いや、むしろ詩の方が賢治らしいんじゃないかと思ったくらいです。中でもこの「真空溶媒」という詩は、賢治らしさが際立っているように感じます。
『春と修羅』のどこがそんなに良かったのか?
どこが「賢治らしかった」のか?
まずは、「物語」が感じられること。
「真空溶媒」は特に物語的な構成が際立つ一編です。
架空の主人公たちが登場し、生き生きと動き回ります。間抜けな会話や突飛な行動も盛りだくさんで、読んでいてその世界にどんどん引き込まれます。
もちろん他の詩も、やはり「物語的」です。短い言葉の羅列の中に、賢治らしい時間の流れが感じられるのです。
「物語的」とはどういうことか。
空想的であること。比喩(メタファー)の世界観を感じること。
そして、時間軸が感じられること。
賢治は、どんなテーマを扱う時も、リアルな世界からひとつ別の次元に、自分の身を置こうと務めます。架空の場所に身を置くことで、主観的・感情的描写に走ることを避け、客観的に広く世界を見渡す余裕を持つことが可能になります。
また、ゆるやかな時間の流れに読者を引き込むことで、
押し付けることなく小さな経験を共にすることができる。
「物語」の良さは、そのあたりにあるんじゃないかと思います。
もうひとつ、この詩集を気に入った理由は、
これが際立って美しい「イメージの宝庫」だったことです。
賢治の言葉はとても絵画的だ、と私はいつも思います。
彼自身絵も描くからでしょうか。でも、それだけじゃないですよね。だって、絵描きが皆、賢治のように多彩な言葉を操れるわけではないですから。
彼は本当に言葉遊びが上手です。特に詩集では、童話などのように「筋立て」に縛られない分、より彼の言葉の魔法が際立っていると思います。ナンセンスな言葉遊びから生まれた数々の情景は、シュルレアリスムの絵画のような不可思議さと、思い切った実験精神に溢れています。
「真空溶媒」だけを例にとっても、金のりんご、ホッキョクグマのように大きな犬、コミカルな主人公たち、鉱物、化学実験的現象などなど、夢のあるモチーフの数々が満載です。
また、優しいばかりではない賢治の厳しさや辛辣さが垣間見えるのも、
この詩集の魅力のひとつです。
妹さんの死や自身の病気、数々の厳しい現実との対面。
賢治の魅力は、そういったシリアスな状況の中にあっても、遊び心を忘れないところにあります。
欧米への憧れ、化学や地学、宗教などなど、果てることのない知的好奇心が、彼の世界を明るく、前向きにさせています。辛い、悲しいと感情に訴え、悲観的になるよりも、一人淡々と知り、学び、静かに喜ぶ姿。その謙虚さと潔さが、彼の持つとてつもないスケール感につながっているんじゃないでしょうか。
というわけで、読めば読むほど及ばない自分に打ちのめされるばかりですが、
また懲りずに、この詩集を題材にした絵を描いてみたいと思っています。
6月に開催された展覧会の作品をUPしています。
この連作以外にも、賢治の作品を題材にした絵がありますので、
よろしければぜひご覧下さい。
http://www.ayukotanaka.com/blog/?p=1494
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参考文献:
『新編宮沢賢治詩集』 (新潮文庫)
(春と修羅も含まれています)